協賛してくださったのは、札幌の中華はココ!というファンも多い、
ルネッサンスサッポロホテル・美麗華さんです。
美麗華さん、ご協力ありがとうございます!

'''不器用な青年時代'''
(おかみ)滝沢さんは、おいくつになられたのですか?
(滝沢)もう67歳になりました(笑)。
(おかみ)生まれはどちらです?
(滝沢)北海道の道東ですよ、中標津です。
(おかみ)ええ?それは驚きです、実は私も母方が中標津出身で小さい頃はよく行ってました。
(滝沢)おお~!そうなの?
父は雪印チーズ工場の技術者でね。
1933年創設の北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)の一期生だったんだよ。
(おかみ)中標津は酪農の街ですものね。
わたしも子供の頃から中標津の牛乳の美味しさに感動していました。
御兄弟は?
(滝沢)弟がひとりの、2人兄弟です。
中学2年生まで中標津で育ち、チーズ工場の工場長になった父の転勤で羽幌に移り住みました。
雪印が本州にどんどん進出した時代でした。
新しい工場が出来るたびに転勤して、岩手や新潟、横浜にも行きましたね(笑)。
(おかみ)あちこち行かれましたね。
(滝沢)高校時代は岩手県盛岡市にいました。盛岡第一高校です。
(おかみ)あら!!それも驚きです。
私も父の転勤で10歳から岩手県盛岡市に住みました。
盛岡北高校を卒業したんですよ。
滝沢さんの行った盛岡第一は頭脳明晰が集まるバンカラの厳しい学校でした。
それは、ますます縁を感じます。
(滝沢)それは面白い、聞いてみないとわからないものですね。
でも僕はでたらめな人生なんですよ(笑)
高校生の時、ハードな大学受験勉強についていけなかったのです。
17歳の僕は抵抗を感じてドロップアウトしたのです。
身体を壊したこともあり、目標も見失っていました。
高校を辞めて図書館で本ばかり読んで、これからのことを考える日々が続いて。
今思うと、わがままだったんでしょうね(笑)。
美術が好きで図書館でデザインの本を読んだことがキッカケになり、
グラフィックデザインの道に進もうと決意しました。
(おかみ)あら、わたしもグラフィックデザインを学びました。ここまで共通するとは(笑)。
(滝沢)多摩美術大学を受けたいなと思いました。でも、高校を卒業していない(笑)。
だから、まずは大検を受けてから多摩美を受験しました。
(おかみ)多摩美といえば、美術を志す若者にとって夢の大学ですね。
(滝沢)アルバイトしながら通学していましたよ。当時、品川だったかな?
印刷会社の夜中のアルバイトの時給が良くてね(笑)、寝ないでアルバイトして稼ぎました。
'''学生運動に明け暮れる'''
(おかみ)昔の滝沢さんに会ってみたいです(笑)
(滝沢)すごく痩せてたよ~~(笑)(笑)
(おかみ)その頃の滝沢さんは何を考えていたのでしょうね?
(滝沢)どうやったらモテるのか考えていました(笑)
(おかみ)あははは、それは健全な大学生です(笑)
(滝沢)その頃は、学生運動の時代だったんだよね。
(おかみ)ほぉ~その時代ですよね。バリケード張ったり、火炎瓶つくったり。
(滝沢)そうそう!懐かしい。
とくに、美術系の大学は過激でしたね。ロックアウトして立てこもり。
日比谷公園に行ってデモ活動して機動隊に囲まれたりね。
グループサウンズが流行してバンドを組んだりしていたよ。
(おかみ)あら、滝沢さんはボーカル?演奏?
(滝沢)ギターを弾いていた気がするなぁ・・・・
(おかみ)気がする?(笑)
(滝沢)約半世紀前のことだからねぇ。
ダンパと言って、ダンスパーティーもよくやったなぁ(笑)。

'''上海点心師の南翔小籠包&上海蟹味噌入り小籠包'''
'''そこで学んだこと'''
(おかみ)学生運動の時代を経験して、学んだことはなんでしょう?
(滝沢)本物と偽物の人間が分かったことだね。
口だけの人と、身体をはって行動する人。
ピンチに仲間を助ける人もいれば、逃げる人もいる。
それは人間の一部の側面でしかないけれどね。
ギリギリになると、人間の本質が見えてくるものなんだな。
学生運動時代の友人とは今も付き合っているよ。
当時いちばんケンカした奴と、今、いちばん仲がいい(笑)不思議なもんだよね。
同じ時代の空気を吸ったこと、その絆。理屈じゃないんだよね。
とても大切な時間だった。

'''大根パイ'''これは秀逸です!サクサクで中はとろり♪
'''珈琲の世界へ'''
(おかみ)多摩美を卒業してからのことを教えてください。
(滝沢)広告代理店に就職しましたが、1年くらいで辞めましたね。
これは自分のいる世界ではないと思いました。
そして次に何をしようか模索していました。
(おかみ)滝沢さんと珈琲との出会いはその頃?
(滝沢)そうです。多摩美のグランドでたき火をしながら仲間と語らうことが楽しかった。
だから、そんな場所をどこかに作りたかったのです。
そうだ喫茶店をやろうと。
グランドで輪になって語り合ったような場所が作りたいと。
店をやればいいんだと思いました。

'''海鮮のXO醤炒め'''
(おかみ)やはり、学生運動という出来事がキッカケになったのですね?
(滝沢)そうそう。
その頃、日本で初めてではないかと思われる珈琲専門店が横浜にオープンしたのです。
横浜駅西口の地下に出来た「みき珈琲」という店でした。
当時は、サイフォンをつかって珈琲を入れるというのが画期的だった。
それこそ時代の先端でした。そこで働いて1年半くらい勉強して。
25歳の頃だったなぁ。
(おかみ)それが滝沢さんと珈琲の出会いだったわけですね。
(滝沢)そうだね~そこの店長がとても厳しくて良い人だったよ。
ある日、高熱が出て仕事を休むと電話したら、
店長が家に来て「風邪くらいで休んでいたら経営なんて出来ないぞ」と。
その店長には、いろいろなことを教えてもらったよ。
(おかみ)若い頃には必ず、良き指導をしてくれる先輩が登場するものですよね。
それを素直に聞き入れる姿勢があるかどうかで、その人の生き方が変わっていくと思います。

'''北京ダック'''

'''札幌オリンピック'''
(滝沢)そして、ちょうど札幌オリンピックが開催されるときが来ました。
(おかみ)わぁ~、良き昭和の時代ですね。
子供も大人もみんな、札幌オリンピックに湧いていましたね。
(滝沢)その頃の札幌は活気に満ちあふれていましたよ。
それを見て、そうだここでやろうと思い立って(笑)。
札幌で喫茶店をやり始めました。
紀伊国屋書店の地下に、珈琲専門店をオープン。
オリンピックを取材に来た記者がいっぱい来てくれましたね。
(おかみ)それが、可否茶館のスタートですね。お店を経営してみてどうでしたか?
(滝沢)いやいや、若いって怖いもの知らずだよね(笑)
深く考えないもので(笑)売上金を持ってみんなでススキノへ行ったりして。
(おかみ)当時のススキノは全盛期の時代ですもの!そりゃ、行かなくちゃ(笑)
(滝沢)その頃のススキノは面白い店がいっぱいで。
ウエスタンが楽しめるホンキートンク。
機関車をテーマにした店や、すすきの霊園、いないいないバー。
若かったなぁ(笑)。

'''上海風黒酢の酢豚'''
'''最高のものを追い求める'''
(おかみ)珈琲の世界に魅了されたのは、なぜでしょう?
(滝沢)僕は、珈琲の味のいい加減なものには我慢できなかった。
最高に旨いコーヒーとは何かを、突き詰めたいと思いました。
最初は焙煎した豆を届けてもらっていたのですが、
どうしても満足できずに自家焙煎に挑戦してみたのです。
(おかみ)当時は、自家焙煎なんて無かったですよね。
(滝沢)平岸の閉店したパン屋の小屋を借りて、そこを焙煎小屋にしました。
焙煎する機械なんて無かったので、まずそれを作ることから。
ありあわせの機械を改造して焙煎を始めたのです。
焙煎の教科書なんてなかったから、すべて独学。
なかなかうまく焼けなかったですよ~~~(笑)
ほんとうに試行錯誤の連続でしたね。
(おかみ)すごいチャレンジャーですね(笑)機械まで手づくり(笑)。
滝沢さんは常に新しいことに挑戦することを躊躇しないのですね。
それは、「こころの若さ」があるということです。
(滝沢)お客さんに美味しいと言ってもらえるまで、時間がかかりました。
(おかみ)自家焙煎で初ですか?
(滝沢)そうですね、自家焙煎第一号となりました。
(おかみ)まえに一度、自家焙煎の体験をしたことがあるのですが大変でしたよ(笑)
(滝沢)スタッフにも恵まれたことで、良い焙煎が出来たのでしょうね。
そして、自分たちの焙煎の味とスタイルが確立してくるにつれて、
お客さんが豆をほしがるようになりました。そして、豆売りを始めたのです。

'''美麗華特製のマンゴープリン'''
'''珈琲を楽しむ北欧のひとびと'''
(おかみ)当時の珈琲の楽しみとして、家ではインスタントコーヒー、
本格的な珈琲は喫茶店で飲むかしかない時代だったと思います。
(滝沢)いずれ、家でも本格的な珈琲が飲めるようにしたいと思い始めました。
当時、一人あたりの珈琲を飲む量が世界一多いのは北欧でした。
それは何故なのかと疑問を持ち、北欧へ行きました。
(おかみ)答えが出ましたか?
(滝沢)ええ、ライフスタイルの違いでしたね。
北欧のひとは、ゆっくりのんびり時間を過ごしていて、
珈琲を飲む時間を大切にしていました。これだ!と思いました。
これから家庭でもゆっくり飲めるようなサービスを提供したいと思いました。
こうして、家庭用に豆を売っていくことでより楽しんでもらえるようになったのです。
(おかみ)道なき道を歩んでいますね・・・
(滝沢)定期的にイベントや講習会をして、家での珈琲の入れ方を教えました。
会員は当時3000人を超えていました。
事業は啓蒙性が大切なんですよ。
(おかみ)話題づくりが店の売上を上げます。
こうして、可否茶館は大きくなっていったわけですね。
(滝沢)当時はまだ珍しかった4週6休制にして健康保険もすべて完備。
優秀な人材が集まってきましたよ。アルバイトは少なくして正社員を増やす。
サービス業はとにかく「人」ですよ。
従業員を育てるのはお客様です。
上質な店を作ればいいお客様が来る、いいお客様がいい従業員を育てるもの。

'''珈琲からワインの世界へ'''
(おかみ)珈琲専門の可否茶館を30年。転機を迎えたのは何故だったのでしょう?
(滝沢)やりたいことは全部やりましたから(笑)。
可否茶館は13店舗になり、北海道と横浜に店を構え従業員はパートも含め80人ほどに。
となると自分はほとんど社長室にいる。
自分の原点を考えてみたのです。
カウンターでみんなと語り合い、珈琲を飲むことが目的だった。
その原点に帰りたいと思ったのです。
(おかみ)まったく別の世界へ行くことに躊躇しませんでしたか?
(滝沢)全然(笑)。今度こそ自分の人生を送るぞ~と思ってワクワクしたよ(笑)。
(おかみ)家族、奥様の反応はどうでしたか。
(滝沢)今まで頑張ってくれて私達をひっぱってくれてありがとうと言ってくれましたよ。
これからは自分の好きなことをやって、と言って理解してくれたことに感謝してますね。
(おかみ)家族も応援してくれているのですね。
(滝沢)都会を離れて自然に近いところで生きたかった。
もともと道産子だし(笑)。
楽しかった子供の頃を思い出したのです。
人生楽しかったのはいつごろだったかな?とね。
そう思ったら、やっぱり自然にかえること、そこに行きつく。
(おかみ)珈琲とワイン、そこには何か?
(滝沢)珈琲の世界に長年かかわってきて思うのが、珈琲豆は日本でとれないということでした。
これが大きな壁だった。
でも、ワインはぶどうから作ることができる、と思ったのです。
(おかみ)ワインの葡萄作りをひとりで始めたと聞きましたが、体力的な不安は?
(滝沢)うん、何もなかったよ(笑)。
ひとりでこの年齢でどれだけ出来るのか試してみたかったしね(笑)。
(おかみ)滝沢さんは、冒険家ですね(笑)。
(滝沢)いつでも楽観的なんですよ。どうにかなるさ、ってね。
そして、可否茶館の権利をすべて譲渡して新しい道に進んだのです。

'''ワイナリーを訪ねて'''
(おかみ)まずはどのような行動を?
(滝沢)山崎ワイナリーのピノ・ノアールを飲んで、北海道のワインに大きな可能性を感じたよ。
まずは、ピンポーンって訪ねて(笑)。それから研修生として勉強しました。
(おかみ)わたしも、山崎ワイナリーのワインが大好きです。応援してます。
(滝沢) 山崎ワイナリーは北海道の可能性を広げた先駆者ですから。
'''北海道とワイン'''
(おかみ)滝沢さんは常にご自分の好奇心を大切にしていますね(笑)
何度でも新しいことに挑戦する姿勢、そして楽しみながら努力しています。
(滝沢)まずは一歩を踏み出さなくちゃ。
無謀はいけないけれど、直感を信じて歩きださなくちゃね。
(おかみ)これからの北海道はワイン、そしてチーズだと思います。
観光でももちろんワインがキーワードになっていくでしょう。
ワインの美味しいところには世界中の人々が集まってくると思います。
(滝沢)それは間違いないでしょうね。
今後、日本の中心は北海道になっていくと思っています。
(おかみ)今日は貴重なお話をありがとうございました。
(滝沢)ありがとうございました。
滝沢ワイナリーのホームページはこちら。
ルネッサンスサッポロホテル・美麗華のホームページはこちら。
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